「何にも似てないもの」なんて、もはや書けない

玉ねぎに黒い汚れみたいなのが付いていることが、たまにある。洗えば落ちるからいつも気にせず食べていたんだけど、ある時ふと「これ食べて大丈夫なやつ?」と気になった。似たような疑問を持つ人が、ネットに答えを書いていないかな、と思い「玉ねぎ 黒い」でググったら、とある質問サイトに、その黒いものが何なのか、洗って食べて問題ないかが書いてあった。

外出自粛となり、家での生活を楽しもうと思って純喫茶から珈琲を2種類取り寄せた。以前はお湯に溶かすタイプのインスタント珈琲しか飲んでいなかったけど、久々にドリップで淹れてみたらなんだか面白くて、しばらく続けてみようと思った。その時ふと、「珈琲のサブスクってないのかな?」と、頭をよぎった。ポストにお花が届くサブスクサービス「FLOWER」がとても良くて、同じようなサービスがあったらいいのに、と。ググってみたら、あった。「PostCoffee」というサービス。

「知りたいな」「こんなものがあればいいのに」と、私の頭で思いつくものは、大体もう世の中にある。

こんな話を書いてみようかと思っても、似ているものが既にあるかもと、筆が止まる。どこかで聞いたような話だ、二番煎じだ、と言われるかもしれない。自分の頭で思いついたものでも、まったく同じ設定の話がすでに小説や漫画になっていたとしたら、「パクりだ」ということになる。じゃあ、世の中の文章や映像、あらゆるコンテンツをすべてチェックした上で、作るべきなんだろうか? いや、そんなの無理だろう。

これだけコンテンツが溢れかえる世界で、「何にも似ていないもの」なんて、もはや書けないんじゃないか。

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「手段を解説するもの」や「単純に情報をまとめたもの」など、書き手の思想を伴わないもので価値を出すには、「切り口を変えること」「他の要素と掛け合わせること」「見せ方を工夫すること」など。

たとえば、索引からハーブの名前で検索できて、それぞれの効能をまとめた『ハーブ辞典』的な本がある。ネットにも、同じような情報が載っているサイトは、たくさんある。同じように、ただハーブの種類と効能だけを載せた本やWebサイトを作ったところでその価値って? となるので、じゃあ「日常生活へのハーブの取り入れ方」という切り口にしてみようかとか、ハーブを使った料理のレシピをまとめてみようか、とか。

私はずっと、そういうやり方をしてきた。役に立つものを、切り口や見せ方を変え、他の要素と掛け合わせて、価値を出す。

でも、「何かに似てしまうなぁ」という思いがあった。こっちのアプローチじゃなくて、「面白い」「楽しい」「切ない」とか、そういう感情の動きを生み出すような方面で、何か作れないものかね……と思うようになったのだ。

でも、エッセイや物語を書いてみたところでやはり、「何かに似てしまうなぁ」という思いは拭えなかった。似てしまうのが怖くて、書く手が止まる。

無理だ。何にも似ていないものなんて、書けない。だって毎日テレビを見て本を読んで漫画を読んでたまに映画も見て、いろんなものに触れていて、「パターン」が身に染み付いている。

自分が読み手になる時も、「これはこのパターンだ」と無意識のうちにカテゴライズしている。そういえば、「これは、何にも似ていない」と思うものって、そうそう見ないかも。みんな、誰かが作った何かの影響を受けているのだから。

つまり、「こういうの、もう既にあるかも」は、手を止める理由にはならないんじゃないか。

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締切がない文章を書き切ることの難しさを、痛感している。
だって、書かなくても怒られないんだもの。目の前には、書くべき原稿があるんだもの。

でもまぁ、書くしかないよね。