不幸でなければ、いい文章は書けないのか

不幸でなければ、いい文章は書けないのか

一年前の今日、会社を休職することを決めた。

その後一ヶ月ほど休み、別の部署に異動して、仕事に復帰した。

年明けからライティング講座に通い、3月末で会社を辞めた。

そして今、ライターとして仕事をしている。

昨年の今日の時点では、一年後に、会社の肩書きも何もない「私」に執筆依頼が来て、文章を書いてお金をもらうようになるだなんて、微塵も思っていなかった。

ライターとしての実績が浅い私に仕事を任せてくれたクライアント各位には、感謝しかない。

3月末に会社を辞め、先の見通しがまったく立たない中、「ライター/なる方法」でググって出てくる「こうすればライターになれます」という、ノウハウ的な記事を読んでみたりもしたが、結局それらは全部無視して、自分が目指したいものから逆算して考えた方法をとることにした。

ノウハウとして切り出せる=真似しやすいということ。
その先にあるのはレッドオーシャンであり、どのみちそこから抜け出すには、オリジナリティを追求しなきゃならない。

だったら最初から自分のオリジナルを展開したほうが早い。そう思った。

たくさんのサイトに同じことが書いてあると、それが正しい情報のように思えてくる。

でも、一見正しそうに見えるものが、正しいとは限らない。
その通りにすれば、物事がうまくいくわけでもない。

そうして、”我が道をゆく”状態で半年ほど。

当初は仕事も少なく、「書く仕事で食えていないのに、ライターと名乗るのは後ろめたい……」と思っていた時期もあったが、ありがたいご縁が重なって仕事が増え、まだまだではあるが、このまま実績を積んでいけばおそらく大丈夫であろう、と算段がつくくらいにはなった。

年明けからライティング講座に通っていた、と冒頭で書いたが、そこでは週に一本、フリーテーマでエッセイを書く、という課題があった。

休職〜復職した直後で、休職の原因は仕事によるストレスだったので、そのことについて書くことが多かった。

同じ職場で、同様にストレスで休職した人が先に2人いて、その様子を見ていたので、体の不調が続いたときに「これ多分ストレスだから、ひどくなる前に休職したほうがいいな」と判断できたから、比較的早く体調は戻った。

でも、先に休職している同僚がいなかったら「休職する」なんて選択肢は持たなかったと思うし、復帰したあともしばらくは体調が安定しなくて、もっとひどい状態で休職に入った彼らは治るまでどのくらいかかるのだろう……など、色々と思うところはあって、過去のエピソードと混ぜたりしながら、それらを書き留めていき、課題として提出した。

「ストレスによる休職」は、とても書きやすいエピソードだった。

辛ければ辛いほど、エッセイは書きやすい。
書いている私の感情の振れ幅が大きければ大きいほど、文章に熱は乗る。
読み手の気持ちも動く。

以前、仕事でストレスを抱え、自ら命を絶った知人のエピソードに絡めて、自分の経験をエッセイに綴ったことがあったが、課題として提出し、合格をもらってサイトに掲載された中で、その文章が一番反応があった。

嬉しくもあり、複雑な気持ちもあった。

人の死をネタとして扱うのは、正しいことなのか?
だが迷いながらも書いたのは、「きっとウケるだろう」と思っていたからだ。

自分の不幸だけならまだしも、他人の不幸に対して、「これは、ネタになる」なんて、不健全にもほどがある。

先日、「ボクらの時代」というTV番組で、南海キャンディーズの山里さんと、オードリーの若林さん、作家の西加奈子さんが対談をしていたときに、山里さんが「自分のお笑いの源泉はネガティブな感情にあるので、幸せになったら芸人として終わりだという思いがある」と言っていた。

それに対して西さんは、「ある漫画家さんも、同じことを言っていた。不幸でないといいものは書けない、というのは、作家の中でもよく言われていること」と言っていた。

不幸でなければ、いいものは書けないのだろうか。
人として不健全であっても、他人の不幸を養分として、書き続けるのが、物書きなのだろうか。

結論から言うと、「不幸でなくても書ける」と思っている。
(西さんも番組内で、「不幸じゃないといいものが書けない、というところに抗いたい」と言っていた)

たしかに、「ストレスによる体調不良」は書きやすかったし、ウケもよかった。

だが、辛さはもはや過去のことで、散々考え尽くし、書き尽くしてきたことをさらに書くのは、出がらしのお茶っぱにさらにお湯を注ぐようなもので、もう味なんて出ないのだ。

では、過去の辛かった出来事をネタに、ものを書くのはどうだろう。
しかし、ネタにいいかも、と思うようなエピソードは浮かぶものの、それを書く意味を見出せない。

私にとって「書くこと」は、今現在抱えている、やるせない思いを昇華させるための行為なので、ウケ狙いの文章を書くために、とっくの昔に塞がっている傷口をわざわざほじくり返すのは、ただ痛くて不快なだけだ。

会社員だった頃と、会社を辞めてライターになった今とでは、考え方がまるっきり変わった。

これまでは、会社員だったころの、半ばワーカーホリックのように働きまくり、劣等感や反発心など、ぐるぐると心に渦巻いていた「仕事にまつわるネガティブな気持ち」を元に書いていたが、そこに関しては、もう書きたいことがないのだ。

年齢を重ねて鈍感になったというのもあるし、ストレスもなく好きな仕事ができていて、単純に幸せだから、というのもあるだろう。

ここ数ヶ月、ありがたいことに仕事が増えた。

依頼はすべて取材記事だ。

「相手の言葉の意味を変えずに、よりわかりやすい表現にするには?」など、いろいろ考えながら文章を練り上げていくのは楽しいし、「こんな人がいるんだよ」と世の中に知ってもらうために文章を書く、それは価値のあることだと思っている。

ただ、その記事がツイッターでたくさんシェアされたり、転載されたりしても、嬉しいっちゃ嬉しいが、それはそもそも、「語り手の言葉」が素晴らしいから。

私じゃなくても、同じ結果になるんじゃないか……?
どんなに力を注いで書いても、そんな考えが頭を過ぎる。

一年前に休職を決め、半年前に会社を辞め、ライターとして仕事を始めた。

今、取材記事のお仕事は、いただけるようになっているので、こちらは引き続き書いていきたい。

もうひとつ、新たにやりたいこと。

次の半年で、エッセイやコラムの仕事をしたい。

それが目標だ。

これまでのネガティブを肥やしにするような書き方ではもう書けないから、今後何を自分のメインテーマとして書いていくかを、改めて考えるところからスタートしようと思っている。

今のところ書きたいなと思っているのは、出身地である浅草や下町に絡めたエッセイなど。

まったく新しいテーマで書こうと思っても熱がうまく乗らないから、昔好きだったものとか、原体験を掘り下げて、そこから要素を取り出して、テーマを考えていくのがいいのかな、と思っている。

テーマを定めるには頭で考えているだけじゃだめで、実際に何本も書いていくことでだんだん定まっていくのだけど、最近は仕事の文章ばかり書いていて、エッセイなど、純粋な自分の言葉を書いていなかった。

「量は質を凌駕する」は、すべてにおいて言えることで、今の私は、圧倒的に量が足りていない。

やるべき仕事があるいまの状態は、とても幸せだ。

でも、やりたいことに対して時間がきちんと取れているか、たまに振りかえる必要がある。

「エッセイやコラムの仕事をしたい」

そのためにいま、何をすべきか?

考えながら、これからの半年も過ごしていきたい。

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