3月10日

3月10日。

浅草をふらふらと散歩していたら、浅草公会堂で東京大空襲の展示が開催されていた。

昨今のロシアのウクライナ侵攻を見るにつけ歴史に興味を持つようになっていたこともあり、展示に立ち寄ってみた。

受付をしていたのは、皆さんご高齢の方々だった。おそらく、戦争を体験した方達なのだろう。奥の椅子が並ぶスペースでは、戦争体験を語る、小規模なトークショーのようなものも行われていた。

疎開先から家族に宛てた手紙が展示されていた。中には、疎開先の景色と思われる絵が添えてあるものも。

空襲で焼かれたラムネの瓶は、原型をとどめないほどに溶けていた。

空襲にどう備えていたのか、民家の室内を再現したエリアもあった。明かりが見えると狙われるから、電灯には黒い布をかぶせる。爆撃でガラスが飛散するのを防ぐために、窓ガラスには縦・横・斜めにテープのようなものを目貼りをしていたそうだ。

空襲で亡くなった方の写真も多数展示してあった。赤ちゃんを背負ったままの形で炭になっている母親。目をつむったまま地面におり重なる大量の人、人、人。

戦争を体験した方が描いた絵も飾られていた。熱に耐えきれず隅田川に飛び込んだ人々が、数日経っても引き上げられず、水面にひしめいているようす。亡くなった人々が学校の体育館いっぱいに折り重なっているところ。いま私が絵として見ているこの悲惨な光景を、この絵を描いた人は目の前で見ていたのかと思うと。辛かっただろう、悲しかっただろうなどとも簡単には言えない。

帰り際、このあと浅草寺の戦跡巡りをするのでよかったら、と受付の方に声をかけられ、行くことにした。

浅草公会堂から伝法院通りを通り、仲見世を抜けて浅草寺の境内に行く。そこで、浅草にまつわる石碑や、東京大空襲で被災し、生き残ったいちょうの木などを見てまわった。

被災し、いまも残っているいちょうの木は全部で11本。弱ってはいるもののまだ生きており、暖かくなれば葉をつけるそうだ。ひときわ大きい浅草寺の御神木は縦に割れ、表面の一部は炭化していた。

「効率よく被害を与えるために、まず街の周囲を火の海で囲い、それからその中に爆撃をしかけていったんです」

解説員の方は言葉を選んでいたけれど、つまりは、より多くの人を効率的に殺すために、ということだろう。効率よく人を殺す。やはり言葉にならない。

「私ね、ここで外国の人に言ってやったことがあるのよ。あなたの国が爆弾を落として、ここいら一帯がバーン! ってなったって、英語でね。ほんとうは英語はぜんぜんだめなんだけど、あの時はどうしてなのか、伝わったのよね。アイムソーリー、なんて言われて。でもまぁ、その人が悪いわけじゃあないんだけどね」

一緒に戦跡巡りをしていた女性が、こう言っていた。話しぶりからすると、最近かどうかはわからないが、戦争が終わってすぐではなく、ずいぶん年月が経ってからのことだろう、と思う。その方は戦争中には長野に疎開していて、東京を離れていたそうだ。疎開先から、遠い東京の地が赤く染まる様子を見ていたという。

女性にアイムソーリーと言った「外国の人」は、戦争を体験したことのない世代かもしれないし、旅行に来て観光をしている最中に、いきなり現地の人にそんなことを言われて、戸惑ったかもしれない。でも「あなたの国が爆弾を落とした」と言ったその女性だって、その人が悪いと思っているわけでも、謝って欲しかったわけでもなくて、ただただ、言わずにはいられなかったのだろう。

日本だって、外国に侵略した歴史を持っている。もし海外旅行をしたときに、現地の方に同じようなことを言われたら? そもそも私はきちんと歴史を理解できているのだろうか。できていない、と思う。学生の頃は、歴史の勉強=年号や偉人の名前を暗記すること、と捉えていて、まったく勉強していなかったのが悔やまれる。今更ながら、小学生向けの日本史漫画で勉強しなおしている。

3月10日。

東京が火の海になった日から77年たった今、毎日のように戦争のニュースを見ることになるとは思ってもみなかった。悪夢のような光景はすべて現実に行われていることで、それを目の当たりにしている人もいる。今日、改めてそれを感じた。

どうか、一日も早く平和が戻りますように。