待ち時間が好き

電車の移動時間、カフェで飲み物が届くまでの時間、病院の待ち時間など、日常の中に非効率に存在する待ち時間が好きだ。長ければ長いほど良い。うとうとしたり、ぼーっと考え事をするのも良いし、音楽を聞くのも良い。本があればなお良い。

子どもの頃から、待ち時間が好きだった。小学生の頃からめちゃくちゃ目が悪くて、大きな眼科に度々通っていたのだけど、そこは予約していてもかなり待たされる病院だった。ぼんやりとしか覚えていないけど、だいたい本を読んでいたように思う。診察後、母が会計を済ませるまでの待ち時間には、病院の裏庭で遊んだ。裏庭からは、外国のお城みたいな変わった形の建物が見えて、病院に行くとその建物を見られるのも楽しみのひとつだった。大人になってから、その建物は教会だったと知った。待ち時間が長くて退屈だったな、という記憶はない。

ゆっくり本が読めるし、お城も見られる。待ち時間は、ひとときの間、自分の好きに使える贅沢な時間だった。その感覚は今も同じで、いやむしろ、大人になり、時間のマスを埋めるようにやるべきことを敷き詰めていく日々を送る今のほうが、贅沢感は増しているように思う。「本来非効率なものである待ち時間を効率的に使ってやったぜ」という満足感ではなくて、何かしてもいいし何もしなくていい、この時間そのものが贅沢だと感じる気持ち。

効率的に時間を使いたい。だって1日は24時間しかなくて、睡眠ややるべきことに費やす時間をマイナスしていったら、自由に使える時間は少ないのだから、考えて使わなければ。そう思うものの、ずっと効率効率効率、と考えていると、気が詰まるもので。そういう時、非効率な時間がふと目の前に現れると、ほっとする。

最近は家にいる時間が多いこともあり、非効率な待ち時間は少なくなった。使える時間の総量は増えたけれど、たとえばその時間で本を読んだとしても、病院の待ち時間に読書をしていた時のような贅沢感は味わえない。何が違うんだろうなぁ。終わりがあるかどうかの違いだろうか。

待ち時間には終わりがある。そこも良いのだ。ずっとぼーっとし続けるのも、延々と本を読むのも、悪くはないけどやっぱり飽きる。飽きたなぁ、という負の気持ちで終えるよりも、「もうちょっと」というところで終わるのが一番心地良い。

今日は、用事の間にぽっかりと生まれた待ち時間に、本を読んだ。ほんの30分程度の自由時間。仕事が溜まっている上に体調も良くなくて気がくさくさしていたけど、心が凪いだ。