「これ誰が読むの?」と思うようなものを書いている人が好き

まっさらなエディタの前で、しばらく固まっていた。

何かを書こうと思っていたはずなのに、何も書けないことが、たまにある。からっぽなのだ、自分の中が。おかしい、頭の中ではずっと、何かしらを考え続けていて、考えすぎて頭が痛くなっているくらいなのに。

心が干からびているような感覚。そういう時は大体、感動が足りていないのだ。やるべきことばかりに時間を割いて、心が動くことをしていない。

本棚をのぞいてみても、読み終わった本ばかり。まだ読んでいないのは、ミステリーとか、ノンフィクションとか。あまり重いのは気分じゃない。

結果、Amazonのプライムビデオで、映画『かもめ食堂』を見ることにした。湯船にお湯を張り、防水ケースに入れたiPadと炭酸水を持ち込み、映画鑑賞。1時間42分の映画だが、茹でダコ状態になったので、40分を残して中断。カラカラに渇いた心が、すこしマシになった。

・・・

「そういえば」と、ふと思い出したときにサイト名で検索して、たまに読みに行くブログがある。そのブログはWordPressで、SEO対策はしていなくて、書き手はSNSをやっていない。つまり、読まれるための仕掛けを何もほどこしていない。

「書きたいから書いている」言葉に、すごく惹かれる。それは、読まれるために書くことに、慣れすぎてしまったからだろう。そんなの仕事だけで十分なのに、仕事以外で書くものにおいても、無意識に誰かのご機嫌をうかがうものや、誤解されないもの、波風が立たないもの、中立的なもの……を、書いている。

それはなぜか。間違えたくないからだ。でも最近思うのは、「正しい答えを選ぼうとするのがそもそも間違っていたのでは?」ということ。正しさよりも、好きなものを選ぶべきなのだ。理屈で考えてこうすべきと思うことじゃなく、心が動くことをするべきで、それは普段の生活でもそうだし、仕事でもそう。

大人の世界は学生の時と違って正解はないんだよ、などと言うけど、正解がないんじゃなくて、正解だらけなのだ。正反対の意見でも、どちらも正しいからややこしいし、選択肢が多すぎて迷う。

訳知り顔でアドバイスをくれる親切な人たちは、「その人にとっての正解」を教えてくれるだけで、それが私にとっての正解かどうかは、また別の話だ。相手がたとえどんなにいい人であっても、だからと言ってそのアドバイスを受け入れなければいけないわけではない。

・・・

私は、私の言葉を、取り戻さないといけない。それは、個性的な表現だとか、修飾語をゴリゴリに入れまくった文章とか、そういう話ではなくて。きちんと思想が宿った言葉、ということ。

楽しい、嬉しい、悲しい、美味しい、綺麗、面白い、興味深い、など心が動くものにとにかく触れて、自分の中に入れこんでいく。平たく言うと、「感動」なんだけど、それじゃあ大袈裟なんだよな。でも、「インプット」とか言うと具体的な情報を頭に入れるようなニュアンスだから、少し違う。もっと抽象的なものが、私には足りていない。

付け焼き刃では駄目で、いろんなものを自分の血肉となるくらいに取り込んでいく必要があるのだと思う。

「これ誰が読むの?」と思うようなものを書いている人が好きな理由は、その人じゃなきゃ書けないものを書いているから。からっぽな人からは、言葉は出てこない。

言葉の奥にその人が見える文章は、とても素敵だ。