SNSで広がる「お隣さん」から、正しさの決めつけという暴力について考える

「あっ!!!」

東京で、みぞれまじりの雪が降ったあの日。
横断歩道で、一人の老人が足を滑らせて転んだ。

数歩駆け寄れば老人のもとに辿りつける距離に、私を含め、数人がいた。

どうしよう、助けに行こうか、でも……とためらっていたとき、

「大丈夫ですか?」

と、ひらりと傘をたたんで真っ先に駆け寄ったのは、若い男性。

手を貸した男性は、自身も水っぽい雪で濡れながら、びしょびしょになった老人に手を貸して、体を起こすのを手伝っていた。

目が離せなくて、二人が横断歩道を渡りきるのを、数歩離れた場所から眺めていた。

渡りきったころ、隣にいた子供を連れた女性が

「両手が荷物でふさがってなかったら、私だって助けに行ったのに」

と、何度も言うのが聞こえた。

私は横でそれを聞いていて、「あぁ、この女性はうしろめたいんだ」と感じた。

老人が転んだ瞬間、その女性がはっと息をのんだ姿を、私は見ていた。

気づいていたのに、駆け寄れなかった自分。
それを恥じて、私だって助けに行こうとしていた、と口にしたのだろう。

なぜそう思ったのか。

私も、同じく駆け寄ることができなかった自分を恥じていたからだ。

***

もう何年も前の話だが、雪の日に信号待ちをしていると、その出来事を思い出す。

でも、ふと考える。
なぜ駆け寄るのをためらったのか?

転んだ老人に手を貸して起こそうとしたら、自分も濡れてしまう。もしかしたら、服が汚れてしまうかも。

そんなことを、無意識に考えていたように思う。

でも、もし転んだのが自分の父親だったら?
服が汚れるなんて考えないで、真っ先に駆け寄るだろう。

あの時、転んだ老人を助けた若い男性は、老人とはなんの関係もない赤の他人だっただろう。でも反射的に駆け寄って、助けていた。

では、この違いは?
なぜ私は父親だったら真っ先に駆け寄っただろうに、見ず知らずの老人を助けるのは躊躇してしまったのか。

その出来事を思い出すたび、考えていたが、しっくりくる答えが見つけられずにいた。

しかし、先日家でゴロゴロしながらツイッターを見ていた時に見つけた、あるブロガーの炎上騒動で、その答えが見えた気がした。

***

先日、あるブロガーが、海外に行く際に、自身のミスで行きの飛行機の時間に間に合わなかった。そして数万円追加で支払い、別便を取った。

現地には無事着いたが、到着後に旅行会社より「行きの便に乗れないと、帰りの便も自動キャンセルになる」と連絡があったそうだ。

そのため、別便を改めて取る必要が生じたが、それには6万円ほどかかることが判明。

そこで彼は、「助けてください」とツイッター上でフォロワーに呼びかけた。

「polca(ポルカ)」という、アプリ上でお金をつのることができるサービスで「帰りの飛行機代をサポートしてほしい」というプロジェクトを立ち上げ、そこで資金をつのった。

そうしたら、彼のブログをいつも楽しみに見ているフォロワーからの寄付で、ものの30分で希望金額を上回る金額が集まったのだ。

彼は、「無事帰国できました。みなさんのおかげです、本当にありがとうございます」と笑顔で帰国した写真を、ツイッターにアップしていた。

この一連の流れに対して、一部の人から

「自分で払える金額なのに、何でフォロワーから金巻き上げてるんだよ」
「その神経が信じられない、意地汚い」

などといった、批判の声があがった。

批判する人々に対しての反論の声もあがった。

その中に、

「もし自分の友人が同じように困ってお金を募っていたら、支援するでしょ? 普段彼のブログを見て楽しんでいる人たちが、彼を助けたいと思ってプロジェクトに支援しただけ。批判するのはおかしいんじゃない」

という意見があった。

「polca」は、友人間での送金・集金を目的とした「フレンドファンディグ」と呼ばれるサービスだ。

インターネット上で「プロジェクト」を立ち上げ、不特定多数の「クラウド(群衆)」に対して資金をつのる、「クラウドファンディング」と、仕組みとしては似ている。

違うのは、資金をつのる相手だ。

「polca」内で作成されたプロジェクトは、URLを知っている人しかアクセスできないようになっている。

つまり、SNSなどでURLを知らせ、それを見た知り合いしか、基本的にはそのプロジェクトの存在を知ることはない。

だから「クラウド(群衆)」ではなく、「フレンド(友人)」ファンディング、なのである。

今回の流れを見ていくと、まずツイッターやブログで、そのブロガーの人となりを知っていて、「役立つ情報をいつもシェアしてくれる」「考え方に共感する」という気持ちになっている、フォロワーがたくさんいた。

そして、その人が「困っています!」と言っていたので、アプリで簡単に送金できるサービスを使って、サポートした。

この一連の流れは、SNSやWebサービスがまだ多くの人にとって一般的ではなかった10年ほど前には、起こり得なかったことだ。

日本に昔からあったような「お隣さん」との付き合いという文化は随分前になくなったが、2007年にiPhoneが登場したのをきっかけに、SNSやWebサービスは急速に進化を遂げてきた。

そして、身近な家族や友人以外の、遠くの人とも「お隣さん」として繋がることができるようになった。

つまり、同情したり共感したりして、手を差し伸べることができる範囲が広くなり、アプリなどを使って直接サポートをすることも、すぐにできるようになったということだ。

どこまでが「お隣さん」なのか? という範囲は、人によって異なる。

ブロガーに対して「フォロワーからお金を巻き上げるなんて!」と批判した人にとっては、そのブロガーの一連の流れは、手を差し伸べる範囲外のことだったのだろう。

そして、雪の日に信号で転んだ老人のエピソード。
老人に駆け寄った男性と、すぐに動くことができなかった私。

私よりも男性の方が、「手を差し伸べる対象」の範囲が広く、そこに対して行動を起こすスピードが速かった。そこが違いだったのではないかと思う。

***

雪が降ったあの日、私は信号で倒れた老人を助けなかった。
一方、すぐに駆け寄ってその老人に手を差し伸べた男性がいた。

インターネット上で、飛行機のチケット代をつのったブロガー。
助ける人もいれば、批判する人もいた。

いずれについても、どちらが正しいとか、そういうことを言いたいわけじゃない。

自分以外のすべての存在に、常に深い愛情を持って接し、手を差し伸べて続けて生きていくことなんて、できない。

少なくとも、私には。

自分の目に止まったものに心を尽くして接すればいいし、助ければいい。

助けなかった人を批判する必要もないし、助けなかった自分を恥じる必要もない。

そう思うのだ。

「正しいこと」を決めてしまうと、それに対するものは「間違い」になる。

絶対的に正しいことなんて、この世に存在するのだろうか。

自分は常に正しい行いをしていると、胸を張って言える人は、どれだけいるのだろうか。

自分は、正しさを振りかざして、誰かを傷つけたりしていないだろうか?

SNS上だけでなく、家族や友人との普段のコミュニケーションの中でも。

時々振り返って、考えるようにしたい。

***

※こちらは、天狼院Webメディアへの寄稿を転載したものです(テーマ自由・日常のエッセイ)
http://tenro-in.com/mediagp/50084

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