死んだ彼女と今日も生きている私のたった一つの違い

死んだ彼女と今日も生きている私のたった一つの違い

「どうしたの? 何かあった?!」

平日の朝8時半。メイクをしながら泣き出してしまった私に向かって、彼氏はそう言った。

その日、私はなんとなく会社に行きたくなかった。

別に会社でいじめられている訳でも、嫌なことがあった訳でもない。

訳もなく、なんだかやる気が出ない。こういう時は、たまにある。

その時期は仕事が少し忙しかった。

疲れが溜まっているのはわかっていたけれど、動けないほど辛い訳ではなかったから、休まずに会社に行っていた。

でも、少しずつ積もっていったストレスは気づかぬうちにだんだん重く固まっていったようだ。鉛のように重い何かが、心の真ん中に鎮座していた。

何となくそのことに気づきつつも、それでも、会社に行かなければと思い、シャワーを浴び、服を着替えて、メイクをしている最中に、鏡の中の自分と目が合った。

覇気のない顔の真ん中には、黒い空洞のような虚ろな瞳。

あれ、この目。どこかで見たことがある。

あの時エレベーターですれ違った。
そして、その後自ら命を絶った。
彼女の目に、そっくりだ。

そう思ったら、いろんな感情がごちゃ混ぜになった、何だかよくわからない涙が溢れてきて、止まらなくなってしまったのだ。

***

新卒で入った会社で、私は保険の営業をしていた。

同期は最初100人ほどいたが、体力・気力ともにハードな仕事だったので、2〜3ヶ月ほどで次々と辞めていき、すぐに半分以下の人数になった。

「1ヶ月に何百人にアポを取って提案していたとしても、契約が取れなければ、それは仕事していないのと一緒だから」

という、徹底した結果至上主義。

契約が取れなければ給料泥棒といわれるような、とてもシビアな世界だった。

彼女とは研修の時に少しだけ話したことがあったので顔と名前は知っていたが、配属先は別のチームだったから、そこまで親しくはなかった。

研修の時には、よく喋る明るい子だな、という印象だった。

その彼女は同じビルの下のフロアにいたので、配属後も顔を見る機会はあまりなかったけれど、数ヶ月ぶりに、エレベーターに乗る時に見かけた彼女に、違和感を覚えた。

虚ろな瞳で空中を見つめたまま音もなくフワフワとエレベーターに乗り込んでくる彼女は、口元が緩んでいて、微笑む直前のような不思議な表情で顔が固まっていた。

研修の時に見た、よく喋る彼女とは別人だった。

自分自身もハードな仕事で疲れきっていたので、あぁ仕事がしんどいのかな……と思いつつ、話しかけるほど親しくはない同期の彼女を目の端で眺めていた。

エレベーターが3階に着いた。

彼女はフワフワと降りていき、パタリと扉は閉まった。

私が彼女を見たのは、それが最後だった。

数週間後、先輩と営業先から帰ってきた時、男性二人組がバタバタバタ! と横を駆け抜けていき、エレベーターに乗り込んで行った。

片方の男性は、黒い箱のようなものを肩から下げていた。

箱にはレンズが付いている……カメラだ。

エレベーターは、3階で止まった。

先輩と私は顔を見合わせ、只事ではない何かが起きたのだろうとは思ったが、詳しいことがわからないのに騒ぎ立てるのは良くないから、一旦今見た光景は他の人に話さないでおこう、ということにして、部署に戻って行った。

翌日、同じ部署の同期数名とともに上司に呼び出され、彼女が会社のトイレで自ら命を絶ったことを聞かされた。

「これから、あることないこと、噂話になるかもしれない。
何が真実かわからなくて混乱する前に、事実を聞いておきたいということであれば、どんな状況だったかを話すこともできるけれど……どうする?」

上司の言葉に隣の同期と目を見合わせたのち、「いえ、大丈夫です」とだけ答えた。

数週間前にエレベーターで見かけた彼女のことを、思い出していた。

***

メイクの途中で泣き出してしまったその日、結局会社は休むことにした。

仕事に行く彼を見送った後、メイクを落として、部屋着に着替えた。

寝坊して諦めていた朝ごはんを食べようと、コーヒーを淹れて、パンを温めた。

情報番組をぼんやり見ながら、ゆっくりコーヒーを飲む。

温めたパンは、ふわふわで気持ち良い。

少々行儀が悪いが、食べる前に、鼻を寄せてくんくんと香りを吸いこんでみた。

うーん、いい匂いだ。
アロマオイルなんかには全く興味はないが、焼きたてのパンの匂いには癒しの効果がある気がする。
この匂いのルームフレグランスがあったらきっと買うだろうな……なんて、とりとめのない妄想をしてみる。

そんな簡単なことで、心がふっと軽くなっていき、さっきまでの妙に重苦しい気持ちは何だったんだ? というくらい、ケロッと元どおりになった。
あまりの変わり身の早さに、「やっぱ会社行こうかな」とすら思ったほどだ。

きっと心が疲れていたんだと思う。

初めはちょっとしたストレスだったものが、それを取り除くのをおろそかにしたせいで、積もっていってしまった。

「風邪をひいたので休みます」は言いやすいけれど、「心が疲れたので休みます」は、なんだかただのサボりのような気がして、言いにくい。

でも、体が疲れるのと同じように、脳みそや、心だって、疲れることはある。

サボる、というと聞こえが悪いが、「疲れて頭がぼーっとするな」「なんだか最近気分が落ちてるな」と思ったら、風邪をひいたときと同じように、休めばいいのだ。

酷くなって、取り返しがつかなくなる前に。

***

エレベーターで見かけた彼女はどうだったんだろう。

きっと最初は少しのストレスだったはず。もしかしたら、今日の私のように、会社をサボったら少しは違ったのかもしれない。

一緒にするのは失礼だろうか?

私の「何となくやる気出ないなぁ」と、彼女が抱えていたもの。

どのくらい辛かったのか、直接話を聞いた訳ではないので、比べようはない。

人はささいなことで傷つき、ささいなことで元気になる。

もし何かが少し違っていたら、彼女は今日も生きていたかもしれないし、私はとっくに死んでいたかもしれない。

でも、彼女は死んだ。私は今日も生きている。

この違いは何だろう?

一つ言えるのは、私は今日会社を休んだということ。

彼女は、毎日きちんと出勤していたらしい。亡くなるその日まで。

もちろん、これが全てではないけれど。

辛いことがひとつも起こらなくて、何もかも上手くいく人生なんてそうそう無い。

失敗もするし、傷つくし、落ち込むこともある。

失敗からは学びがあるし、傷ついて落ち込んだら、同じように悲しんでいる人の気持ちに寄り添うことができる。

骨折したことのない人は、骨折の痛みに寄り添えない。経験は知識に勝るから、どんなマイナスの出来事も、捉えようによっては活かせる。

……なんて言っても、辛いものはやっぱり辛い。

だったらそれを自覚して、時には自分を甘やかして、ちゃんとケアする。

そうすれば、また今日を乗り越えて、明日から続くその先も歩んでいけるんじゃないだろうか。

***

会社を休んでめいっぱい自分を甘やかした翌日、すっきりした気分で目覚めた。

コーヒーを淹れて、テレビでニュースをチェックしながら、パンを食べる。

着替えて、いつも通りメイクをする。

最後に、鏡の中の自分の目を見つめた。

空洞じゃない。命がちゃんと宿っている目に、ホッとする。

もう大丈夫だ。

もし同じ目をしている人がいたら、今度は寄り添いたい。

大それたことはできない。

でも、うわべだけの言葉じゃないものを、きっと掛けられると思う。

***

※こちらは、天狼院Webメディアへの寄稿を転載したものです(テーマ自由・日常のエッセイ)
http://tenro-in.com/mediagp/48577

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