病院で感じた幸せの理由

病院で感じた幸せの理由

先日、会社帰りに健診を受けに病院に行った。

そこの病院は入院病棟もあるような、大きめの病院で、一般的な病気ももちろん見てもらえるが、入院患者もたくさんいる。

機械をカラカラと引きながら歩く若い女性や、看護師さんに伴われながら酸素ボンベとともに歩くおじいさん、ドラマで見るようなニット帽をかぶった少年もいた。

少し待ち時間があったので、病院の中のカフェで時間を潰すことにした。

お昼時をすぎていたので人はまばらだったけれど、パジャマ姿でお見舞いの人と思われる人と一緒に会話している人がちらほらいた。

コーヒーをすすりながらぼんやり本を読んでいたら、「こっちの席にする? ほら、座って」と言う男性の声が聞こえた。

ちらりとそちらを見やると、パジャマ姿の高齢の女性と、スーツ姿の男性がいた。

パリっとしたスーツの胸もとには、社章が光っていた。

平日だったので、男性はおそらく、お見舞いのために仕事を抜けてきたのだろう。

パジャマ姿の女性は、その男性の母親のようだ。細い声で会話し、嬉しそうに微笑んでいた。

会話の内容までは聞こえなかったが、嬉しそうな女性の様子、にこやかな男性の声を聞きながら、仕事ばかりで会えない子供と、こんな風にゆっくり会話ができる時間はきっと幸せなんだろうなと感じた。

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ふと、新卒で保険の営業をやっていたときのことを思い出した。

その時、とある病院を担当していて、医師や看護師相手に生命保険を売っていた。そこの病院も入院病棟がある、大きな病院で、アポの合間に病院内のカフェでたまに時間を潰していた。

そこはがん治療で有名な病院で、ニット帽姿の患者さんもたくさんいた。

がんと言えば、失礼な発想だが「命を落としてしまう病気」というイメージだったので、悲壮感が漂っていて、どんよりとした雰囲気なのではと、最初は少し緊張していた。

病棟に行くことはあまりなく、患者さんを見るのは、病院内のカフェにいる時くらいだった。

そこでは最初に心配していたようなどんよりした空気ではなく、穏やかで幸せな雰囲気が漂っているように感じた。

病気=辛いもの、というイメージしかなかったのでそれを不思議に感じていた。

今いるこの病院のカフェにも、同じように不思議な穏やかさが流れている。

楽しそうに会話する親子を見て、その理由が少しわかった気がした。

保険の営業をしている時に、どんよりした雰囲気なのでは、と思っていたのは、病気は辛いもので、心も体もそれに支配されてしまうのだと思っていたから。
でも、病気はその人の全てではなくて、日常の中の一つの要素なのだ。

がんで闘病の末に亡くなった、フリーアナウンサーの小林 麻央さんのBBCへの寄稿を以前読んだことがあるが、そこにはこう書かれていた。

私が今死んだら、人はどう思うでしょうか。
「まだ34歳の若さで、可哀想に」「小さな子供を残して、可哀想に」
でしょうか??
私は、そんなふうには思われたくありません。
なぜなら、病気になったことが私の人生を代表する出来事ではないからです。
私の人生は、夢を叶え、時に苦しみもがき、愛する人に出会い、2人の宝物を授かり、
家族に愛され、愛した、色どり豊かな人生だからです。

引用元:がんと闘病の小林麻央さん、BBCに寄稿 「色どり豊かな人生」

息子さんと楽しそうに話すその女性も、病室に戻れば辛い治療が待っているのかもしれない。

思い通りにいかない身体に、もどかしさを感じることもあるかもしれない。

一方で息子さんも、お母さんのお見舞いに来て、少し元気そうな姿にホッとするけれど、家に帰ると「いつ治るのだろう」と不安な気持ちになっているのかも。

それに耐えて、平気な顔をして会社に行く。そんな日々を送っているのかもしれない。

それぞれの人生があって、ずっと楽しいことばかりが続くわけではない。

辛いことや楽しいことが積み重なって、人の一生はつくられていく。

途中で「病気」になったとしても、それはその中の一つの要素ではあるが、全てではない。

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カフェの中には本棚や雑誌が入っているラックがあり、ラックに入っていたフリーペーパーには、がん患者の方のインタビュー記事が載っていた。

抗がん剤治療はどうだった、がん治療の時にはこんな症状があった、という内容の後に、その治療を経て今どんな生活を送っているという内容も写真付きで載っていた。

スポーツインストラクターとして活躍している写真や、バイオリンを弾いている写真。闘病中の人が読んだら、きっと励みになるだろう。

ふと、自分のことを考える。

私は以前ストレスで体調を崩して、仕事を休職したことがある。

しばらくは、電車に乗るだけで動悸やめまいが出てしまったりして、これは果たして治るのだろうか、ずっとこのままだったらどうしよう……と、その苦しさが自分の全てのような気持ちになっていた。

それから数ヶ月たち、今はもう動悸やめまいが出ることはほとんどない。

でも、たまに「あれ、動悸が出ているような気がする」と不安になることがある。

実際に出ている時もたまにあるし、出ていないのに気になることもある。

完全に元どおりになったら、もちろん嬉しい。

でも、もし戻らなくても、体調が悪いことが私の全てではないから大丈夫だと、いまは思えている。

辛かったり悲しかったりすることは、その最中にいる時は、それが全てだと感じてしまう。

最初は白い紙に墨をぽとりと落としたような、ただの点だったものが、どんどん広がって行って、真っ黒に心を塗りつぶされるような感覚になることもある。

でも、それはただの「点」だ。

辛いことに心を奪われて、その周りにある優しさや楽しさを味わえないのはもったいない。

「辛いこと」が、後から振り返ったときに人生を代表する出来事になったら、悲しい。

泣いても笑っても、「辛いこと」がそこにあることに変わりがないなら、その存在を受け入れて、もっとほかのことに目を向けていこう。

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※こちらは、天狼院Webメディアへの寄稿を転載したものです(テーマ自由・日常のエッセイ)
http://tenro-in.com/mediagp/48371

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